茨木のり子1)『自分の感受性くらい』2)他2篇
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて (12ページ)
『自分の感受性くらい』という詩はこのように始まる。これを初めて読んだときの驚きは今なお鮮やかだ。茨木のり子のストレートな表現は、筆者(= Wunderkammer管理人)が詩というものに抱いていたイメージを吹き飛ばすほど力強く迫ってきた。この詩は次のように終わる。
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ (14ページ)
叱られているようでいて、励まされる気持ちがしたものである。自戒の言葉であり、他者への責任転嫁の虚しさを気づかせてくれる。
別の詩『一人は賑やか』もまた、〈淋しさ〉という私たちが時に扱いに困る感情で足をすくわれないよう励ましてくれる作品である。叱咤激励の言葉である。
一人でいるのは 賑やかだ
賑やかな賑やかな森だよ
夢がぱちぱち はぜてくる
よからぬ思いも 湧いてくる
エーデルワイスも 毒の茸も (80ページ)
「よからぬ思い」のところがとりわけ慰めにならないだろうか。孤独は本来肥えた土壌のようなものであるはずなのに、私たちはそれを疎んじて、すぐに群れようとしてしまう。群れれば淋しくなくなるのか? よけい淋しさが増すだけではないのか?
一人でいるとき淋しいやつが
二人寄ったら なお淋しい
おおぜい寄ったなら
だ だ だ だ だっと 堕落だな
恋人よ
まだどこにいるのかもわからない 君
一人でいるとき 一番賑やかなヤツで
あってくれ (81-82ページ)
もう1篇紹介しよう。『汲む――Y・Yに――』は、少女と大人の女性との出会いをうたっている。「大人になるとは〈すれっからし〉になること」と思い込んでいた少女に、Y・Yという頭文字をもつその女性は言うのだ。
初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました (149ページ)
これを聞いて、少女はどきんとし、大人になるとは決して〈すれっからし〉になることではないのだ、と悟る。
大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと…… (150-151ページ)
大人になるとは〈すれっからし〉になることなのかどうか。大人ならば、〈すれっからし〉にならずにあり続けることが、なかなか困難であることを知っているはずだ。
茨木のり子の詩を3篇紹介したが、どれからも真摯さ、生真面目さといったものが伝わってきて、くつろげないという印象をもった人もあるかもしれない。しかし、私たちは時にびしっとした硬い言葉にこそ、励まされ慰められるものではないだろうか。
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1) いばらぎ・のりこ。1926年大阪生まれ。詩人。
2) 1975年1月発表。この詩と同題の詩集『自分の感受性くらい』(花神社、1977年3月初版)に収められている。この詩集は 2005年5月に新装版が出ている。なお、この書評では、紹介した3篇ともが収められている茨木のり子の詩のアンソロジー『おんなのことば』(童話屋、1994年初版)のページ数を示した。