中島義道『私の嫌いな10の言葉』1)

 

 著者の嫌う10の言葉とは、次のとおりである。

@相手の気持ちを考えろよ!

Aひとりで生きてるんじゃないからな!

Bおまえのためを思って言ってるんだぞ!

Cもっと素直になれよ!

D一度頭を下げれば済むことじゃないか!

E謝れよ!

F弁解するな!

G胸に手をあててよく考えてみろ!

Hみんなが厭な気分になるじゃないか!

I自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!

 

 どれも説教に使われそうな表現である。なぜ著者はこれらの言葉を嫌うのか。何が問題なのだろうか。

 

何を隠そう、 [@からI] という私が選んだ「嫌いな言葉九選(一〇番目の言葉だけ違うのですが)」は、全部自分の立場よりはるかに他人の立場を尊重することを教え込む言葉。そして、私はそれが体質的に厭なのであり、(その美点にも増して)それがもたらすかずかずの弊害を指摘したいのです。(47ページ)

 

 端的にいうなら、著者は、「察し合う」を美徳とする日本人のものの考え方に苛立っているのだ。2)「体質的に厭」と表現しているが、どのような体質の持ち主に「察し合う」文化が合わないかといえば、感覚が「みんなと一緒」ではない人、感受性が平均値からズレている人である。このような少数派(マイノリティ)にとっては、これらの言葉は多数派(マジョリティ)の感性の強制的な押し付け以外の何ものでもない。これらの言葉に著者は、傲慢怠惰自己批判精神のなさを感じ取る。なぜなら、これらを平気で口にする人は、自分のスタンダードに何の疑いももっていないから。自分がマジョリティであることにどっぷりつかっているから。マイノリティの方が正しいこともある、少なくともマイノリティにも存在価値があるなどと考えたこともないから。

 

 Iは著者もいっているが、他のものとは毛色がちがう。これが口にされるのは、若者に向かって、将来何になりたいの、と聞くような場面である。いくら好きでも仕事にするのはまずいものもあるし、また好きなだけではどうにもならないこともわかっているのに、こういう言葉を発するのは欺瞞だ、と著者が批判するのはもっともである。この言葉もマジョリティの感覚(=世間の掟)をそれとなく気づかせる働きがある。この点では、他の9つの言葉とそれほどかけ離れてはいないと、筆者(=Wunderkammer 管理人)は思う。「おためごかし」度では、Bほどあからさまではないものの、かなり高いように感じられる。

 

 「察し合う」日本文化の美点も認めたうえで、常識的な価値観に自らを、また他人をガンジガラメにしばりつけないようにしたいものだ。もし、これらの言葉をしばしば口にして説教をしているようなら、それは自分を「みんな」の側に置いての安易で狡猾な態度ではないか、と一度よく考えてみた方がよいだろう。

 

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1) 新潮社、20008月刊。

2) 京のぶぶづけ」も著者にいわせると、高級でも何でもない野蛮な文化である。「なぜなら、いつも自分の言葉に二重の意味をもたせたまま自己防衛の「逃げ道」を作っておいて、一方的に相手にこの二重性に従うことを要求し、しかもそれを明言せずにいて、従わない相手を軽蔑するのですから。傲慢で、狡く、野蛮な文化です。」(38ページ)

 ただし、Wunderkammer 図書室の第5回で取り上げた、同じ著者の4年後の著作である『英語コンプレックス 脱出』を読むと、著者のこのような態度はやわらいできているようにもみえる。




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