大岡昇平1)『俘虜記』2)
著者は1944(昭和19)年3月に召集され、東京で暗号手としての訓練を受けたのち、7月にフィリピンのミンドロ島に送られ島の警備にあたった。12月に米軍が島に上陸。翌年1月に米軍の襲撃を受け、捕虜となる。そして、レイテ島収容所に送られ約1年間をそこで過ごした。本書はその従軍および収容所での体験を記したものである。
戦後60年が経過した今、日本人の大多数にとって「戦争」は経験をともなわない抽象概念と化している。これはむろん幸せなことではあるが、そのために私たちは戦争というものに対して非現実的なイメージを容易に抱きかねないという危うさもはらむようになった。映画『スターウォーズ』のような荒唐無稽な勧善懲悪ものにさえ、私たちは影響を受けてしまうかもしれない。そして、その単純でわかりやすく妙に勇ましい「正義」の戦いに高揚感を覚えることもあろうが、スクリーンの中のヴァーチャルリアリティと現実とはあくまでも別物であることを私たちは重々承知していなければならない。高揚感は持続しがたいものである。一方、現実の戦争はいったん始まったらそう簡単には終わらず、耐え難い日常へと変質していく。
本書の冒頭では、捕虜になる前の戦場での日常が描かれている。それは、緊迫した戦場のイメージとは程遠い。キャンプをしているような呑気な状態のところへしのびよるのは米軍ではなく、マラリアである。
それにこの山中の生活は最初のうちはそんなに悪いものではなかった。気候は既に乾季に入って雨も少なく、暑いのは日中、それも日向(ひなた)だけであるから、着のみ着のままの露営生活には丁度手頃(てごろ)な陽気である。糧食も差当たって不自由なく、分隊毎(ごと)に疎開(そかい)分宿したから軍紀もおのずから緩んで、兵士を堅苦しい軍隊の日常の作法から解放した。我々はキャンプにでも来たような気持ちで谷川の水で飯を炊(た)き、マニヤンと呼ばれる附近の山地人(これは海岸地方に住む一般比島人より色の黒い異人種で、戦争に無関心である)と馴(な)れて、赤布、アルミ貨幣等を与えて芋、バナナ、煙草(たばこ)等を獲た。我々は時々麓(ふもと)に下り、飼主を失って彷徨(ほうこう)する牛を射(う)ってその肉を食べた。
しかし災厄(さいやく)は意外な方からやって来た。マラリアである。 (新潮文庫版、10ページ)
戦地における病気もまた、私たちの単純な「戦争」のイメージからははずれる。戦死といった場合、敵に殺されることしか頭に浮かばず、病死などは思いもよらない。著者の所属部隊では、米軍の襲撃を受ける前の半月間に、日に3人ずつマラリアで死んでいったという。著者も襲撃に遭った際、すでにマラリアに罹っていて、倒れて意識不明になっているところを米軍に捉まったのである。
軍隊に入ったからといって皆が皆、「聖戦」を信じる純粋な戦士になるはずもない。3) 軍隊の上官、同僚、収容所の仲間など大勢の人物の描写がある。著者の属していた部隊が年のいった補充兵の集まりだったことも多少関係しているかもしれないが、「純粋な戦士・兵士」のイメージからは程遠い人物たちが顔を並べている。
こう書いて来ると、遺憾ながらわがミンドロの将校や補充兵がただ軍人として劣るばかりでなく、人間としても甚だ愛すべき存在でなかったことを認めざるを得ない。そしてもしこうした世に摺(す)れた中年男の醜さが、戦場という異常の舞台に氾濫(はんらん)するに到ったのが、専(もっぱ)ら彼等に戦意が足りなかったという事実に拠(よ)るとすると、国家が彼等を戦場へ送ったのは、国家にとっても、彼等自身にとっても、遺憾なことであった。
無論機械を送るのが最上であったが、機械を持たない日本は、そのかわり訓練によって戦意を持たされた人間を送った。しかし教えられた戦意が事実の前に脆(もろ)いのは、補充兵でも現役兵でも似たようなものである。 (同、203ページ)
高揚感なき戦場の日常の次に著者が味わうのは、高揚感などさらに持ちようのない収容所生活である。最近では米軍によるイラク人捕虜虐待事件が私たちの記憶に新しいが、著者の収容所での体験はどのようなものだったのだろうか。
我々は兵士ではなかったが、後にはたしかに俘虜であった。しかも清潔な住居と被服と二千七百カロリーの給与とPXを享受する一流の俘虜であった。或る者は今なおあの頃(ころ)を「天国」と呼び「我が生涯(しょうがい)の最良の年」といっている。 (同、221ページ)
二千七百カロリーの食糧は熱帯の気候では我々の胃には重すぎ、多くの食糧を棄(す)てている。喫煙する者にもしない者にも、無差別に与えられる月四百本の煙草は所内にだぶつき、我々はそれを賭に用いる。明らかにこういう文化財は、我々が忍んでいる不自由の代償としては過重であり、その余剰が我々を堕落させるのかも知れない。 (同、318ページ)
とにかくここで明らかになるのは、当時の日米の生活水準の格差である。米軍のとてつもなく豊富な物量に圧倒されてしまう。4) これほどまでの物質的豊かさの差を見せつけられると、やはり竹槍では戦闘機を撃墜できなかったという、どうしようもない当時の現実を再認識せずにはいられない。
精神の高揚は生きる喜びと結びついている。それなしの生は空虚だろう。しかしそれは持続しないものである。古風な個人的な決闘のようなものならともかく、集団で行なう近代戦とそれを結びつけてもむなしいだけである。
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1) おおおか・しょうへい(1909−88)。作家。代表作は本書の他、『武蔵野夫人』『野火』『レイテ戦記』など。
2) ふりょき。俘虜とは捕虜のこと。1952年に創元社より刊行。新潮文庫版は1967年初版。本書が戦場および収容所での個人的体験に基づいた記録であるのに対し、もう1つの代表作『レイテ戦記』は、日米双方の資料を駆使して戦争を描いた大作である。
3) 「聖戦」などという欺瞞に満ちた言葉を信じるのは、子供を別にすれば、どのような人間であろうか。ドイツの哲学者カール・ヤスパース(1883-1969)が紹介した、1933年に作られたという次のような警句は、そのことを考える際に参考になるかもしれない。それは、知的であるということ、誠実であるということ、ナチであるということの3つが、同時に成り立つことはありえない、という警句である。つまり、人間は知的であり、かつ誠実であれば、絶対にナチにはなりえない。また、知的なナチ党員がいるとすれば、その者は人間として誠実ではありえない。そして最後に、人間的に誠実なナチ党員がいるとすれば、その者は知的ではありえないはずだ、というわけである。(参照:山口定『ナチ・エリート:第三帝国の権力構造』中公新書、1976年、23ページ)しかし、実際には知的で誠実なナチ党員も多数存在したところにドイツの悲劇の底の深さがある、と山口定は述べている。(同書、24ページ)
4) 捕虜の扱い方とその国の物質的豊かさとは関係があるだろう。ソ連軍によってシベリアに抑留された場合の悲惨な様子と、このレイテ島収容所の様子はあまりにちがいすぎる。また同じ連合国軍側の収容所でも、英軍と米軍とでは様子が異なるようである。英軍による捕虜収容所体験記としては、会田雄次の『アーロン収容所』(英軍捕虜となって過ごしたラングーンでの2年間の記録。中公新書1962年、中公文庫1973年)がよく知られている。1つ付け加えると、『俘虜記』『アーロン収容所』ともに捕虜たちの娯楽についても触れている。芝居の小道具や麻雀パイなど、すべて必要なものは自分たちでありあわせの乏しい材料から作り出すのである。その技術に驚嘆し、その熱意に胸が熱くなる。