斎藤美奈子1)『冠婚葬祭のひみつ』2)
著者あとがきによると、タイトルの「ひみつ」は、子ども向けの学習まんが「学研まんが『ひみつシリーズ』」から採ったそうだ。確かに、本書は入り組んだ事柄をわかりやすく説明していて、面白くてためになり、学習まんがと通じるところがある。著者のいつもの軽やかなスタイルで読みやすい一冊に仕上がっているが、堅苦しい研究論文にもなり得る内容をもつ。冠婚葬祭マニュアル本に見る明治以降の日本社会の変化、また社会の変化に応じた現代にふさわしい儀礼の考察が本書のテーマである。
冠婚葬祭は文化人類学的には「通過儀礼」に分類される儀礼である。人類学のかつての主たる研究対象であった無文字社会では、伝統は脈々と受け継がれ、社会全体が儀礼を共有していた。そのような社会にあっては、儀礼マニュアルの出番はむろんない。伝統の直接的な継承が危うくなって、人はマニュアルを必要とするようになる。自分はきちんとは知らないが、あるべき儀式があるはず、それに則ってきちんと振舞いたい、そう考える人がいなければ冠婚葬祭マニュアルは売れはしない。
本書を読むと、「伝統」が意外に歴史の浅いものであること、伝統の形成過程でその時々の流行の影響が侮れないこと、由緒ありげな儀礼の成り立ちに実は利にさとい個人の思いつきがおおいに関与していること、また、長らく続いた儀礼も、社会の変化でいやおうなく変化せざるを得ない場合があることなどがよくわかる。このように確固としているようでいて、その実、変化し続ける冠婚葬祭とはそもそも何のために存在するのだろうか?
つまり冠婚葬祭とは「生物としてのヒト」を文化的な存在にするための発明品だったのではないか。冠婚葬祭という儀礼の衣を剥(は)ぐと、その下からあらわれるのは生々しい身体上の諸現象なのだ。結婚とは一皮むけば性と生殖の公認にほかならず、葬送は肉体の死。元服を迎える一五歳前後は第二次性徴期である。すなわち冠は「第二次性徴の社会化」、婚は「性と生殖の社会化」、葬は「死の社会化」、そして祭は「肉体を失った魂の社会化」。儀礼は生理を文化に昇格させる装置だったのではないか。(iiiページ)
著者によれば、日本の冠婚葬祭は今、変革のまっただ中にあるという。十年前、二十年前の「しきたり」や「マナー」では太刀打ちできない状況さえ生まれているそうだ。またそれが慶事(結婚式)と弔事(葬式)で同時に起こっているという。3) 社会における人間関係や家族のあり方の変化が冠婚葬祭にも反映しているのである。その変化とは端的にいえば、社会のますますの近代化であり、その結果として人間がいよいよ「個」としての存在になってきたことである。孤独に伴われながらも自由を謳歌してきたシングルは、自分で歩いて墓に入るわけにはいかない事実をつきつけられてたじろぐかもしれない。
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1)
さいとう・みなこ。1956年、新潟市生まれ。文芸評論家。
2)
2006年5月、岩波書店より刊行(岩波新書)。
3)
1990年代の中盤に結婚式、葬式ともに大きく変化し、最近の結婚式はなんとその7割がキリスト教式だというから驚きだ。もちろん日本人のキリスト教人口が急に増えたわけではない。また葬儀は身内だけでひっそり故人を送る「家族葬」などと呼ばれるものが一つのスタイルとして定着してきているらしい。