佐藤信夫1)『レトリック感覚』2)
あなたの周りにもいないだろうか。なかなかいいことを言っているのに、感じの悪い言い方をするので疎んじられているような人が。3)
「何が言われているか」に集中しなければいけないのに、私たちはしばしば「どう言われているか」に気を奪われ、受け止め方を変えてしまう。
知力を武器に万物の長にのし上がり、この世界を統べる人類は、いったいどのくらい賢いのか、それとも案外愚かなのか。みずからの発明品である言語を自在に繰っているようで、その実、繰られているのではないか。「やれ」とか「しろ」とか命令口調で言われれば、絶対やるもんかとへそを曲げるのに、「していただけないかしら」などと猫なで声で頼まれると、言われた以上のことまでしてしまったりする。
アリストテレスが『弁論術』や『詩学』を著したように、その辺の事情を昔の人は近代の人間よりもよく承知していたのかもしれない。レトリックは説得する表現の技術として、まずは語られた。それはつまり、人間はものの言い方によって判断を左右されるという認識にもとづいている。
時代がくだって近代になると、レトリックは没落の運命をたどる。近代人は、自然科学や技術の発展とともに、自分たちも進化したと単純にも錯覚したのかもしれない。ことばの使い方いかんで「真実」が変容するなど近代人には受け入れ難い考えで、レトリックを役にも立たないものとして無視するようになった。また、芸術的表現の技術というレトリックの第二の側面も、近代人の目には無駄なお飾りのように映るようになって、こちらでも軽視されるようになってしまった。
20世紀の後半、近代の見直しが始まって、それとともにレトリックにも再び目が向けられるようになり、その際、アリストテレス以来説かれてきたレトリックの二つの役割に加えて、第三の役割に注目が集まるようになった。すなわち、「発見的認識の造形」4)(講談社学術文庫版、21ページ)である。本書は、このようなレトリックの「発見的認識」という働きを、多くの具体例を通して明らかにしようという試みである。レトリック技法(ことばのあや)を直喩、隠喩、換喩、提喩などに分類し、詳述している。その際、隠喩は「白雪姫型」、換喩は「赤頭巾型」や「青ひげ型」、提喩は「人魚姫型」や「ドン・ファン型」と呼ばれ、とっつきにくいレトリック用語がいっきょに親しくわかりやすいものに姿を変える。21世紀に入ったいま、本書は認知言語学の先駆的著作として紹介されるようになった。
筆者(= Wunderkammer 管理人)が本書を最初に読んだのは1987年のことで、こんなことを考えている人がいるのかと驚き、おおいに感動して読んだことを覚えている。引かれている例文とその内容も興味深かったが、それを綴る著者の文体がまた魅力的だった。レトリックについて語りながらみずからの文章に対する配慮は欠ける興ざめな書き手もいるが、佐藤信夫はもちろんその仲間ではない。
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1)
さとう・のぶお。1932年、東京生まれ。1993年没。東京大学哲学科卒業。元国学院大学教授。著書に、本書の続編にあたる『レトリック認識』のほか、『記号人間』『レトリックの消息』など。2006年には、佐藤の遺稿をもとに企画・構成された『レトリック事典』(執筆:佐藤信夫・佐々木健一・松尾大)が大修館書店より出版された。
2)
1978年9月、講談社より刊行。「ことばは新しい視点をひらく」という副題がついていた。その後、講談社文庫(1986年3月)となり、さらに1992年6月に講談社学術文庫から刊行された。
3)
「文は人なり」ということばがあるが、本書では次のように言っている。「発言というものは、前面ではそのことばによってえがかれている対象を表現すると同時に、裏面ではかならずその発言者の像を表現してしまうものだからである。」(講談社学術文庫版、228ページ)